就職で失敗した東大生が挫折を乗り越えていった話〜就職できない東大生のリアル〜

就職で失敗し、挫折した東大生がもんもんと考えたことを書いたブログです。東京大学に合格し、将来への期待を胸に頑張るも全然上手くいかず・・・。人生に行き詰まり、一転負け組になる。現在は人徳のあるベンチャー企業に拾ってもらい、日々社長のもとで奮闘中。

あの地獄の5月から、はや1年…

現在、会社で課題が与えられ、ブログを書く時間が皆無に近いです。
 現在、会社で課題が与えられ、ブログを書く時間が皆無に近いです。

 でも、それで自分が続けると決めたことを止めるのも嫌なので、なんとか瞬足で書き上げました!
 少し文章が荒いのは、ご容赦下さい!



 あの地獄の5月から、早くも1年が経ちます。当時はまだブログを始めてなかったので、あのとはどのだろうと思われるかもしれませんが、私にとっては本当に人生において辛い時期であり、同時にその後人生が変わっていく転換点となった時期でありました。
 ちょうど1年前、私は2つの大きな挫折を経て、価値観や生き方が大きく変わりました。
 あの頃を思い返すと、大変感慨深いものがこみ上げてくるのです。

 
 ちょうど1年前のこの時期、私は試験勉強と合気道の稽古のことしか考えていませんでした。
 本当に、私の人生はその2つのことだけでできていたのです。


 5月下旬に国家公務員1種(現在は総合職と呼ばれています)の試験があったため、それに向けてひたすら法律を頭に詰め込む毎日でした。必修の憲法民法行政法、選択の刑法・商法・労働法、大量の法律に関する判例と、出題されそうな論点をひたすら覚える、そして過去問を解いて確認する、ただひたすらその繰り返しだけの日々でした。そのときの私は、暗記マシーンと化して感情がなくなっていました。文部科学省に入り、教育行政に携わるという夢を実現するには、それしかなかったので、とにかく闇雲に勉強していたんです。なんで、判例丸暗記しなければならないのかと、心の隅でうっすら思いながらも、やるしかないのでとにかくやっていました^^;

 同時に、合気道の稽古に対しても本気で取り組んでいました。私は2年生から、毎週月曜日の夜に、明治神宮武道場で行われる有志稽古に参加をしていました。その有志稽古は、稲葉稔先生(昭和の武蔵と呼ばれる國井善弥氏のお弟子さんです)という私の大変尊敬する先生による稽古であり、この先生と出会ってから、心から学びたいと思って、必死で通っていました。
 稲葉先生の稽古は厳しいですが、だからこそ卒業まで続けよう、少なくとも卒部までは絶対に続けるんだと思って通っていました。
 試験や面接が始まり、忙しくなるのはわかっていましたが、それでも続けることにすごく拘っていました。
 また、5月の文化祭で最後の演武会があったので、引退までラストスパートと思って、そのための稽古にも力を入れていました。

 とにかく、この時期の自分にとっては、試験勉強と稽古が人生の全て、世界の全てだったのです。
 なんと言いますか、生きていくためには、それが自分にとっては絶対必要なことで、そこでやりきらなければ先はないと感じていました。

 時間が経って振り返ってみると、その時の自分は、強烈な思い込みに突き動かされて、猛烈に行動していたんだとわかりますけどね。

 

 その後、勉強に関しては試験に落ちてこの進路を目指すのが本当に正しいのか悩むことになり、ご存知の通り、国家公務員への道は断ち、民間就職へ切り替えることになりました。

 また、稽古の方は、春に有志稽古に参入してきた新2年生や、どんどん実力をつけていくこれまで共に稽古してきた部員を見て、自分の才能の限界を感じ、ここがやめどきだと悟って通うのをやめました。部活自体は夏に引退するまで続けましたが、尊敬する稲葉先生の稽古に通うことにこだわりを持ってきたので、そのような結果になったことには本当にショックでした。


 今、あの頃から1年経って思うのは、まず、自分は、本当に思い込みが激しく、世界が狭かったなということです。
私は東京生まれの東京育ちで、中学こそ公立の中学校でしたが、高校からは都立の進学校に進み、受験は大変苦戦したものの、無事に一浪して東京大学に合格できました。だから、どこかその流れの中で、だったらその先は国家公務員だろうと決めつけていたところがありました。完全に見ている世界が体制エリートの価値観に規定されていました。
また、中学からずっと運動部だったので、とにかく諦めないで続けるべきだという、信念があり、絶対に途中でやめては駄目だと思っていました。

 

 今思うと、そんな絶対的なものなんてこの世にないので、結局のところ思い込みだったわけですが。


 他には、すごく他の人や物事に対して、私は非寛容だったなと反省しています。
 夏目漱石の『こころ』に、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という台詞がありますよね。自分はどこかそんな風に人を見ていたところがある気がします。今思えば、なんて浅はかな思い上がりだったのだろう、他人に対して冷たかったんだろうと、恥ずかしいですが。
 高校受験では、もともと学校の成績がよかったこともあり、普通に一生懸命受験勉強すれば受かってしまいました。だから、必死に勉強して、それが上手く報われて、だから世の中努力すればちゃんと最後には報われるんだみたいなことを思ってしまったんです。
 こう言ってしまうと聞こえは悪いですが、世の中のエリートでこのような考え方になってしまっている人は結構多いと思います。
 でも、私は、進学校に入ってから揉まれて、東京大学に必死に人生かけて勉強して臨んだのに落ち、現実の厳しさを知りました。
 そこではじめて、努力が報われると限らないことを知りました。

 

 ただ、それでも東京大学になんとか受かったので、やはり向上心すらない人は駄目だと、どことなく人を見下したようなところがありました。
 そして、国家公務員試験に落ちて、自分が如何に傲慢だったのかがやっとわかりました。そして、就活で挫折が続き、世の中って本当に理不尽で、努力が報われるどころが、人生かけて努力するに値するものって意外と少ないのだということがわかりました。そういうものと出会えてたこと自体が幸せなんだと、初めて気づきました。
 本当に、そこで気付けて良かったです。1年前にぽっきり折れてなければ、本当に鼻持ちならないエリートになっていました。ああよかったよかった(笑)


 それに気付いたことで、自分とは違う、世の中のいろいろな人を、はじめて心から受け入れることができるようになったように思います。
 それまで 無意識に、上昇志向が強かったので、成功者とか、エリートとか、そういう世界や人ばかり見ていました。
 でも、それだけでは駄目なんだと気付けました。
 

 世の中の優秀な人、勝ち組の人には、駄目な人、負けた人、目立つ欠点などを否定して、排除する人が多いと思います。そして優秀な人だけで狭い世界を作ります。
 自分はエリートコースを歩むうちに、そういう価値観に呑まれていた気がします。
そういう人達だけでなく、本当に世の中にはいろいろな人がいて、確かに駄目なとこや欠点や、いろいろあるけれど、人間として毎日一生懸命みんな生きているんだということ、それが大事だと思うようになりました。
 そういうことに気づけるようになったおかげで、そこから本当の意味で人を思いやったり、手を差し伸べたり、そういうことが徐々にできるようになってきたように思えます。まだまだ少ししかできませんけれど。



 

 まとまらないものをまとめると、結局のところ、自分は思い込みで前に進んでて、視野が狭くなっていたのだと思います。
  外から見てみると、何頑張ってんだとか、勉強よりもっと遊んでコミュニケーションとったほうがよいよとか、そういうふうに見えると思いますし、それはもっともだと思います。
  しかし、実際それを言われると、何かに人生かけたこともない人に、何がわかるんだろうという気もしてしまいます。

 でも同時に、頑張ってないからとか、上手く就職できないからとか、そういうことばかりで人を見て、ダメだと決めつけるとか、そういう人を見下したり排除したりとか、そういう姿勢にも凄く違和感を感じてモヤモヤします。


 本気で頑張って進んで来なければ、納得できず、後悔だらけの人生になっていました。
 でも、頑張って頑張って、挫折をしなければ、傲慢で、人を思いやれない狭い人間になっていました。
 どっちも一長一短で、どっちも大切で、ひたすらモヤモヤして、答えが出ません。

 とりあえずのところ、最近思うのは、人生って、普通に生きていれば、寝て、起きて、ご飯を食べて、食べるために労働して、同じことの繰り返しで、そのうち老いて、死んで、それだけのつまらないものなんじやないかということが1つあります。
 だから人生って、何もしないとただだるくてしんどいだけなのではないかと…。

  それなので、どうせ生きて、そのうち死ぬなら、何か思い込んで、夢中になって行動するのもありかなーと。そうして始めて気づけることもたくさんありますし。

 

 おおざっぱですが、これがとりあえず現段階での自分の結論です。きっとまた考え方もいろいろ変わると思いますけれど…。


 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

 皆様、生きるのは毎日大変ですが、良い1日をお過ごし下さい(^^)*