真面目なエリートが挫折することについて
真面目なエリートが挫折をするということについて、しばらく考えてきて思うのは、「真面目」だからこそ挫折して辛い思いをするのではないかということです。
そもそも「真面目」とはなんでしょうか。私はここしばらく、「真面目」とは組織や体制の価値観に傾倒することではないかと思っています。本来の意味の真面目はそうではないかもしれませんが、どうしても社会において真面目であるということはそういう方向性を持ってしまいます。
よって真面目な人は、組織や体制など、自分を取り巻く環境の価値基準に従って一生懸命頑張るわけです。
しかし、社会とは、その性質からして、真面目な人が報われるようにはできていません。社会では、本当に真面目であろうがなかろうが、その集団の価値基準と合致した人が成長し、支配的な地位について、そしてその価値基準で社会を運営します。社会学における「再生産」の理論です。勉強のできる人が学校で良い成績をとり、東大まで進み、官僚になって社会のルールを決めるというようなことです。それと同じことがすべての人間集団で行われています。
頑張ってその中で戦っていけばどうにかなる…という面もあるにはありますが、しかし東京大学に入って、世の中は本当に不平等なのだとわかりました。庶民あがりの自分とは違いもともと家がお金持ちな人、一浪してやっと東大に入った自分とは違いすんなり現役合格してしまう人、勉強だけではなくもとの人柄により自然と人を惹きつけてしまう人、など最初から持っているものが違うのだと実感させられました。
そういう人達が作っている社会で、その人達が決めた基準に沿って戦っても、当然負けます。
だから、「真面目」に頑張って勝てるのはもともと組織や体制と合致した資源や能力を持ってる人だけで、そうでない人はむしろ律儀に「真面目」に頑張ってしまうと、負けて社会の敗者になってしまうのです。
社会の中でまっとうに適応して努力することで、それなりに力はつきました。私は進学校に入って、浪人時代は東大専門の予備校に通って、そして東大に入って、部活もずっと厳しい部活でやってきて、常に優秀で意欲の高い人達に囲まれて王道ルートできました。競争社会の中で周囲にもまれにもまれてすごく力がつきました。しかし、途中で限界が来てしまって、それ以上進めなくなりました。
実は挫折する前は、厳しいからって途中で部活やめちゃって、それで他のこと楽しくやっている人が、私にはなんだかずるく見えてました。根性ないなと思いながらも、なんか楽しそうだなと羨ましく思っていました。そしてむしろ上手くいってるのってそういう人だったりして、とにかくずるいなと思ってました。
でも、実際問題として、成功する人って、そういう風に上手く自分に合う環境に乗り換えられた人か、もともと体制の求めるものと自分の持って生まれた能力が運良く合致していて、真面目にまっとうに頑張れば頑張るほど報われていく人のどちらかなのだと思います。世の中は本当に理不尽です。
でも世の中が理不尽でも、死なない限り一生懸命生きてくしかありません。
とりあえず、今は、人間、やっぱり自分の土俵で戦わないとダメなんじゃないかな、ということを考えています。
ただ、完全に違う方向に土俵を変えても全然だめだったので、土俵を少しズラすということが良いのではないかと模索しています…。