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就職で失敗した東大生が挫折を乗り越える話〜就職できない東大生のリアル〜

就職で失敗し、挫折した東大生が日々もんもんと考えたことを書いたブログです。国家公務員志望でエリートコースを歩む→上手くいかず人生に行き詰まり、一転負け組に→切り替えて民間就活を始め、ITベンチャーに内定、社会にもまれ生きて生きる決意をする、そんな東大生のリアルなつぶやきです。

コミュ障東大生の最強処世術 —人と関わるのが苦手なわりにリア充な私の、人間関係戦略−[1]

[1]コミュニケーションに対する認識を変える

 『コミュ障東大生の最強処世術』第1回では、「コミュニケーションに対する認識を変える」というテーマで、

  • コミュニケーションは、充実した人生を生きるための道具である
  • コミュニケーション以前に、自立したひとりの人間であることをより重視する

という、自分独自の視点について詳しく書きたいと思います。

 

 まず、導入として、私がなぜその姿勢をとるに至ったのか、軽く触れていきたいと思います。

 私は、高校時代、しっかりと友人をたくさん作って、集団に適応していきたいと考えていました。中学のときに孤立しがちだったことを反省し、いわゆる高校デビューをしたいと思っていたのです。進学校に合格し、同じくらいの偏差値の人間が集まった場ならば、浮かずにうまく周囲に溶け込めると信じていました。そのため、高校では、自分から積極的に声をかけて友達を増やそうと行動しました。それまでは、一部の親しい人としか仲良くできなかったので、これをきっかけにクラスのどの人とも仲良くできるような人間に変わろうと努力しました。

 しかし、その努力は実りませんでした。自分から話しかけても、目立たない私から声をかけられて喜ぶ人は残念ながらあまりいませんでしたし、いろんな人と仲良くしようと八方美人になってしまい、結局親しい友人を作ることができませんでした。また、所属していた部活動では、積極的に行動したことで、逆に強い態度に出すぎてしまい、周囲との関係を悪化させることになりました。それがきっかけで、人と関わることがいやになり、抑鬱状態にまでなってしまいました。

 そのように過ごしていく中で、私は、「アスペルガー症候群」という、知的に遅れがなくても、コミュニケーション能力に生まれつき問題がある人達がいることを知りました。自分はひょっとしたらそれではないかと思い、ネットや本で調べたり、人から話を聞いたりするようになりました。それにより、自分がコミュニケーション能力に問題があるのは生まれつきだから、いくら人と同じように努力してもだめなのだということを悟りました。(実際は自分はアスペルガー症候群ではなく、「自閉症スペクトラム」というものだと後にわかりました。)

 しかし、自分にとっては、そこで、いったんふっきれてしまったことがその後、人との関わり方を大きく改善していくきっかけとなりました。いくら周囲をうらやんでも、絶対に自分は人と同じように過ごすことはできないのだから、自分独自のやり方で、人とは比較せずにやっていこう。できないことを嘆くのではなく、小さくてもいいから自分にできることをやっていこう。そう、切り替えて変わっていくことができるようになりました。

 

 このような経緯で、独自の前提に立って、人間関係の戦略を構築していくことになりました。この独自の視点について、以下で詳しく述べようと思います。

 

⑴コミュニケーションは、充実した人生を生きるための道具である

  これは、コミュニケーションは、充実した豊かな人生を歩むための、また人生に勝つための道具であると、わりきってしまうという意味です。

 

 すなわち、コミュニケーション自体を目的とした生き方を捨てるというスタンスであるといえます。

 

 私は、上記の理由でコミュニケーション能力について諦め、他に生きがいを見出すことにしました。それは、目標を設定して、それを目指す努力に全力を傾けることでした。そして、コミュニケーションはその目標を達成するための道具なのだと、だから道具として最低限機能するように努力すればよいのだと、そういうふうなスタンスに変えました。

 私の場合それは、東京大学の合格を目指して努力を積み重ねることでした。東大を目指して勉強を積み重ねることを生きがいとして日々を過ごし、周囲の人間関係は、それをサポートしてくれる人との関わりを重視しました。また、それ以外については、集中して勉強することの妨げにならないように、そこそこ良好な関係を保つことを心がけました。

 

 それにより、以前のように、集団からあぶれないようにと周囲に合わせようとしたり、こいつ友達がいないのだと見下されないように上辺をとりつくろったり、そういう疲れることをしなくて済むようになり、精神的に安定して過ごせるようになりました。また、たとえ友達が少なくても、自分には東京大学という目標があるのだ、そう考えて勉強に集中することで、自分に自信を持って、充実した毎日を送れるようになりました。

 

 もちろん、この目標は、私がたまたま東京大学合格であっただけで、他の目標であってもいいわけですし、目標でなくて趣味やなにかでも、自分が生きがいを見出せるものであればなんでもよいのだと思います。

 

⑵コミュニケーション以前に、自立したひとりの人間であることをより重視する

  これは、コミュニケーション能力がどうのこうのと悩んだり、嘆いたりする前に、自分自身がしっかりすることが第一だという意味です。

 

 これは同時に、他人を羨んだり、誰かがなんとかしてくれるのを期待したりするのではなく、とにかく自分が解決するんだという気概をもつということです。

 

 私の大学での専攻は教育学でしたが、私は教育分野に広く行き渡っている、「周囲のサポートがあることが大切」「いかに困っている子に気づいて悩みを聞いてあげるかが大事」というような考え方が、あまり好きではありません。

 

 本当に困って、悩んでいる時、鬱々悶々と悶え苦しんでいる時、必ず誰かそばに支えになってくれる人がいる・・・そうとは限らないじゃないですか!

 少なくとも私の場合は、本当に悩んでどん底にいるときは心を閉ざしてしまい、周囲に人が寄り付かなくなってしまいます。だから、いくら辛くても、都合よく助けてくれる人なんてあらわれません。自分でなんとかして立ち上がるしかないんです!!

 

 人に言われたからとかではなく、まず自分でなんとかしたい、変わりたい、もっとよくなりたいと切望し、自分自信で試行錯誤して進んでいく。

 コミュニケーションがどうのという前に、自分が人として変わっていくんだという自立心をもつ。そういうことこそが大切なのではないかと思います。

 

 学校教育という環境は、そういう自分が強くなっていくんだという気持ちを後押してくれるような姿勢が足りないと思います。「道徳」や「思いやり」が大事だと、口で言うのは簡単ですが、本当にそれで本人が成長できるのかというところが疑問です。自分にできることをやって、自分でなんとかしていくしかない、そういう気持ちを応援して背中を押してくれることこそが、人を育てる上では重要だと、私は思うのですが。

 

 とにもかくにも、私にかぎっては、自分ができるやり方で、自分の力で変わっていく、そういう姿勢をもつことがその後の成長につながりました。それにより、結果的に人としての魅力や周囲からの評価が上がり、よい出会いも増えていったような気がします。

 

  

 以上、コミュニケーションを道具と捉えて他に生きがいを見つけること、人に頼らず自分で成長していくこと、と2つの自分を中心に据えたあり方を主張してきました。しかし、これらのことは、決して人と関わることの重要性を否定しているわけではありません。

 

 むしろ、その逆です。

 

 不思議なことですが、一人でしっかり生きて行く姿勢になると、むしろ他者のありがたさをひしひしと実感するようになります。なぜなら、人はやっぱりひとりでは生きられないことがわかるからです。

 独立した一個人として相手と関わっていくからこそ、あの人って本当にすごいなと感じたり、ほんのちょっとの気遣いが身にしみたり、この出会いがあって本当によかったなと感動したり、そういうことがどんどん生まれてくるような気がします。

 

〜一応つけておく実践ガイド〜

  最後に、一応実践ガイド的なものをつけておきたいと思います!

 これは、単純に、自分が人の文章や本を読んでいて、行動に移せるようなわかりやすいまとめがあると嬉しいと感じるからです!つまりは、完全な自己満足です(笑)

 

・コミュニケーションは、充実した人生を生きるための道具である

◇人に合わせたり、うわべをとりつくろったりすることに疲れていないでしょうか。もし、そうだとしたら、他に自分で取り組める生きがいを何か見つけることで、自分に自信を持って、落ち着た日々を過ごせると思います!

◇ささいな、人に好かれた、嫌われたなどの感情に動揺する毎日でしょうか。もしそうならば、その人間関係が自分にとって何の役立つのか、改めて考えなおし、本当に必要な関係をはっきりさせると良いかもしれません。

 

・コミュニケーション以前に、自立したひとりの人間であることをより重視する

◇もし悩んでいることがあったとしたら、小さなことでよいので、人と比べるのではなく、自分にできることは何かを考えてみるのがよいと思います。

◇人の助けが必要だとしたら、誰かに頼るのではなく、自分が成長するのに必要なことをアドバイスしてもらったり、背中を押してもらったりするという気持ちで、主体的に関わっていくとよい結果を得られると思います。また、助けを求めるときには、そのようなしっかりと力になってくれる人を厳選することが大切だと思います。

 

 

今回は以上となります。

コメントはいつでも歓迎しております!

ありがとうございました!

 

 

 

コミュ障東大生の最強処世術 —人と関わるのが苦手なわりにリア充な私の、人間関係戦略−[序]

 今回の投稿では、もうひとつだけ新企画を始めてみたいと思います。

 

 ここでは、ものすごく人と関わるのが苦手な私が、生きるために独自に培ってきたノウハウを公開したいと思います。

 

 最近、人と関わるのが苦手にもかかわらず、どんどん外に出て行って果敢に行動していることが、周囲に評価されてきているような気がします。

 そのことから、自分が必死に生きてきた中で培ってきた技術に対して、ニーズがあるのではないかと考えました。そこで、せっかくなのでブログで公開し、読んでくださった方のお役に立てたら、または元気の元になることができたら嬉しいなと思います。

 

 

 まずはじめに、当企画の文章は、一般的な人間関係に関する方法論に対し、以下の点で独自の視点に立ったものです。

  • コミュニケーションは、充実した人生を生きるための道具である
  • コミュニケーション以前に、自立したひとりの人間であることをより重視する

 

 当前提のもと、全6章に分けて、人間関係の実践に役立つ考え方をまとめていきたいと思います。変更の可能性はありますが、現段階では以下のような章立てにするつもりです。

 

[1]コミュニケーションに対する認識を変える

[2]フレームワークの転換

[3]戦うことを覚える

[4]一期一会のメンタル

[5]マーケティングの重要性

[6]コミュ障を強みに変える

 

 当構成は、私が人生の中で試行錯誤を繰り返してきた流れに基づいたものとなっています。

 

 高校から進学校に入り、厳しい競争社会にうまく適応できず、抑鬱状態にまで陥ることがありました。持ち前の根性で、学校を休むことはありませんでしたが、挫折を重ねる中で、人と同じようにやっても自分はダメなのだと気付き、認識を変えて独自の方法論のもとに技術を蓄積し始めました。その内容を主に[1][2]にまとめようと思います。

 大学に入ってからは、合気道部に入り、そこで人に揉まれに揉まれながら、武道の考え方を応用しつつ、上手くいくやり方を探りました。そこで掴んだことを[3][4]でまとめようと思います。

 就活では、積み重ねた努力にもかかわらず、大変苦労することになりました。ドン底を経験しながら奮闘を重ね、なんとか新たな段階に進むことができたので、そこで得た気づきを[5][6]でまとめようと思います。

 

 この文章では、自分のようにコミュニケーションで悩み自信をなくしている人が、見方を変えて前に進んで行くきっかけとなってもらうこと、とくに、学校にうまく馴染めないようなタイプの人が、自信をつけるきっかけとなってもらうようなことを狙っていこうと思います。

 

  ”コミュニケーションは苦手だ。だからといってなんだというのか!”

  ”自分だって充実した人生を送りたいんだ!”

  ”コミュ障だということに臆せず、堂々と生きてやるぞ!”

  

そんな心の叫びに正直に生きていけるとよいと思います☆

 

 

  4月から働き始めて、更新が続けられるかはわかりませんが、とりあえず今は時間があるので、書くぞと宣言して始めてしまおうと思います!

 また社会に出れば見方もいろいろ変わってくると思うので、基本的に私が学校という環境の中で培った考え方として、「コミュ障東大生の最強処世術」のタイトルで書いていくつもりです。もう卒業して東大生ではなくなるわけですが

(^^;

 1章は次回、2章以降はその他の書きたいことと交互に出していく感じで、続けていきたいと思います。

 スローペースではありますが、よろしくお願いいたします!

 

 

 

ちょっと変わった東大生の読んだおすすめ本  <第2回> 『占いのトリセツ』

 こんにちは。卒業までまだ時間があるので、なにか新しいことを始めたいなと思いつつ、あまり良い出会いが得られずに煮詰まっているこの頃です(泣)

 そのため、自分で唯一コツコツ進められる読み書きに勤しんでおります(^^;

 

  今回第2回は、占いについての本を扱いたいと思います。賛否両論あるかと思いますが、この本のテーマである「占いを使う」という観点にフォーカスして紹介したいと思います。

 

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  今回扱う本の題名は、『幸運を導く 占いのトリセツ』です。「トリセツ」とは「取扱説明書」の略であり、その名のとおり、占いを人生をよりよくするためのツールとして、どう使っていくのがよいかということが書いてあります。

 

 この1冊は、占いを使って幸運をつかみとりたい方、占いという不思議な世界に興味がある方、なんでもよいから人生に勝ちたい方などには特におすすめしたいですし、逆に占いなんて信じないという方、科学と聞いたらなんでも信じてしまう方(笑)などにも読んでいただきたいです!

 

 著者は占星術研究家のクーア(Cooa)さんで、私のお世話になった新宿「癒しと占いのお店メグーア」をはじめとした占い館を経営する経営者であり、映画のタロットアドバイザーなども務めて活躍されている方です。最近ではLineのトーク占いでも鑑定をされているようです。

 

 

 まず、気になったのが、著者が占いに興味をもったきっかけが、自分と似ていたことでした。

 

 クーアさんが占いと出会ったのは、アメリカロサンゼルスで映画の専門学校に通い、役者を目指していたときでした。そのとき彼女は、外国人というハンディを背負いながらがむしゃらに頑張り、なかなかうまくいかない状況に悩みながら、どうしたらオーディションにうまく合格できるかを模索されていました。

 クーアさんはその時感じたことをこのように書いています。

「アメリカにいると、日本ではなかなか出会えないようなポテンシャルの高い人達との出会いがあります。この人達はみなキラキラしたオーラを持ち、有能で性格もよく運もあり、ビバリーヒルズで高級車を乗り回し、高級住宅街の豪邸に住み、欲しいものは全て手にしていました。…(中略)…しかし、同じ人間なのにこの人達と私はいったい何が違うのか、どんな考え方をして、なにが見えているのか。この人達みたいになるためには自分をいったいどう変えていけばいいのか、いつも探求していました。」

 

 同じ人間なのに、なぜあの人達はあんなにキラキラしていて、自分とこんなにも違うのか・・・。なにがなんでも、自分を変えて、ああいうふうになっていきたい・・・。そんな切望する気持ちに私はすごく共感しました。

 

 なんだかんだ、人間、どうしようもない格差に対して憤って、それを超えてやりたいというときがあると思うのです。そういう気持ちに対して、もっと正直でいても良いのではないかと感じました!

 

 

 そして、次に、突筆すべきところは、なんといっても本書のチャプター1「占いを知る」に書かれている内容です。

 

 クーアさんは、占いは、「当たるか、当たらないか」ということは大して重要ではなく、「占いの結果から何を感じたのか」という方が大切だと述べています。

 

 占いでポジティブな結果が出たらよかった、と安心する。しかし少し経つと本当に当たっているのかと不安になる。このような、結果によって不安が大きくなってしまったり、依存して一喜一憂心が揺れ動いてしまっている状態は、占いを有効に使えていないのだと指摘しています。

 逆に占いは、「天気予報を見るような感覚」で、「運勢を読むツール」として使いこなせれば有効だというのです。例えば、「なにかやりたいことがあって、早くすすめようとしてもなかなかスムーズにいかないとか、邪魔ばかり入るときは、ムリにすすめようと思っても今はタイミングではないんだな。ととらえるようにしています。」というふうに述べていますが、今は向かい風が吹いている、だから無理に進もうとせずおとなしくしていよう、というように使っていけばいいのだと思います。

 

 私は、このような捉え方が、占いに限らず、すべてにおいて重要だと考えます。世の多くの人は、占いを参考にしたといえば、そんなものを信じて大丈夫かと批判しますが、科学を参考にしたとか、法律を参考にしたといえばむしろ賢いと賞賛するでしょう。でも、これまで勉強してきて思うのは、所詮科学も法律も人がつくったもので、全く頼り甲斐がある完璧さには程遠く、必ずどこかに限界があるのだということです。完璧なアプローチなんてこの世に存在しません。それなので、科学であろうが、法律であろうが、占いであろうが、その道具の性質を良く理解し、そして自分の人生のプラスになるように使いこなす、そんな主体的姿勢が何より大切なのではないかと思うのです。

 

 以上、ちょっと変わった東大生の読んだおすすめ本シリーズ第2回でした。ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました!!

参考URL:

https://www.amazon.co.jp/幸運を導く占いのトリセツ-Cooa/dp/4865703632/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1488776323&sr=8-1&keywords=占いのトリセツ

新企画:ちょっと変わった東大生の読んだおすすめ本<第1回>!!マックス・ウェーバー『職業としての学問』

こんにちは。

 みなさまお元気ですか。私は、諸事情により足首が腱鞘炎になってしまい、あまり外に出歩くことができません(笑)

 そこで、家で過ごす時間が増えたため、ブログの記事を増やすことにしました!

 これまでは、主に就職や人生など重いテーマを扱ってきましたが、それだけだとあまり更新が進まないので、新たに、読んだ本の感想を書くコーナーを始めてみようと思います!

 

 

 第1回は、マックス・ウェーバー著の「職業としての学問」を扱おうと思います!

 

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 すごく堅そう、と思われるかもしれませんが、毎回堅いのを取り上げるつもりはなく、他の回では禅とか、占いについてとか、全くジャンルの違う本も扱おうと思っています。でも、今回はもうすぐ大学卒業も控えているので、この本でいこうと思います!

 

 特に、学者になることを考えている方や学問の本質に興味があるかた、一流中の一流の学者がどういうことを考えているのかを知りたいかた、逆に学問なんて意味があるのかと疑問をもっているかた、そんな方々におすすめしたい1冊です。

 

 著者のマックス・ウェーバー先生は、言わずと知れた大社会学者・政治経済学者です。東大法学部の授業をとるとすごくよくとりあげられています。官僚制の研究や、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の論文が有名ですよね。

 そんな大学者先生が、学生に対して行った講演の内容をまとめたものが、この「職業としての学問」です。そのため、学生たちに向けて、職業として学問に取り組むことはどういうことなのか、またそもそも学問とはどういうものなのかについて語られています。東京大学を卒業し、これから学問を離れる私にとっては、凄く心にしみてくる内容でした。

 

 まず、印象に残ったのが、はじめに学問の外的条件について述べられているところでした。大学の制度について比較・検討し、学者として生きることについて客観的に評価をしています。なんだかんだ、研究が評価されて報われるか否かは、学問的に正しいかだけではなく、教授に気に入られるか、ポストが空くかなどの「運まかせ」となってしまう面があると指摘しています。そして、学生たちに向けて、「あなたは、凡才につぐ凡才が、毎年毎年、あなたをさしおいて昇進していく様を、憤慨もせず、悲嘆にもくれず、じっとみていられると心底思いますか?当然ながら、答えはいつも同じ。『もちろんです。わたしはただ自分の「天職」に従うのみです。』そうはいっても、わたしがみたところ、悲観的にならずにこういう状況に耐えられたのはほんのわずかにすぎません。」というふうに述べています。天狗になって、なんでもわかったつもりになっている人であれば、こんなことは言えないですよね。厳しい現実から目を背けずに進んできた、ウェーバー先生だからこそ言えることなのだと思いました!

 頭が良い学生に対して、研究者になればよいとはよくいわれることですが、実はその道は大変厳しく、だれもが成功して自分の好きな研究に熱中して過ごせるわけではないのです。それをわかっていてなお、博士課程の道に進む人は、やはり素敵だなと思うこの頃です。

 

  

 次に印象に残ったのが、学問・科学と宗教についての議論です。ウェーバー先生は、この本で、科学の宿命とはどういうものか、そして学問にできることできないことはそれぞれ何か、対して宗教や神学はどういうものかということについて述べています。しかし、ここではざっくりと、私の感じたことを書いてしまおうと思います。

 

 端的にいうと、学問は、人生をどう生きるべきか、日々どのように行動すべきかというような、人として切実に湧いてきてしまう疑問には、その本質からして答えてくれないものなのだとわかったということです。ウェーバー先生は、はっきりと、それを示すのは学問や科学の役割ではなく、宗教や指導者の役割だと述べています。哲学をし、社会を制度を研究すれば、必ずそこにおいて人がどのように考え行動しているのか、また本来の社会はどうあるべきなのか、などということを考え始めてしまいます。人と議論を交えれば、いったい何をもって正しいとするのか、考えざるを得なくなります。しかしその中で、科学や学問が説明できることとできないことがあるのだと、そして学問の役割はここまでなのだと、専門家として堂々と言いきってしまえるのはかっこいいなと思います。そして、そのおかげで、自分が感じていたもやもやはそういうことだったのかと、やっと腑に落ちることができました。

 

 確かに、科学は、学問は、技術として、また考える際の道具として、大変役に立ちます。でも、考えても考えても、やっぱり理屈だけでは説明しきれない部分が出てきてしまうものなのです。それをわかっていてなお、論理を極める道を選ぶのはすごいことだと思います。一方で、諦めて神やカリスマ指導者に尋ねることも実はしごく妥当な選択なのだと思います。私は、スピリチュアルの世界に尋ねることにしたわけですが、自分にとっては、理屈で説明しきれないところの解決がどうしても必要で、それがその道を選ぶことになった理由です。

 

 

 以上、「職業としての学問」の感想でした!

 もう少し軽い内容にするつもりでしたが、わりとがっつりとしたものになってしまいました(笑)第2回はもっと軽やかにいきたいです…。

 

※リンク:

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4003420950/ref=s9_simh_gw_g14_i1_r?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=&pf_rd_r=12JDW30X7XMRWXY5YEVS&pf_rd_t=36701&pf_rd_p=468f07e8-7382-4ac5-8230-03ba81544ed9&pf_rd_i=desktop

 

https://www.amazon.co.jp/職業としての学問-マックス-ウェーバー-ebook/dp/B0174UNI70/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1488261425&sr=8-7&keywords=職業としての学問

 

 

人に喜んでもらうということ

 前回の文章をお読みいただき、また宣伝にご協力くださり、大変ありがとうございました。

今回は、人に喜んでもらうということをテーマに文章を書きたいと思います。

 

 最近、ある人と、「論文を書くのと違って、テレビに出ると、テレビ局の人が喜んでくれる」という話をしました。

ここには、勉強が他者との関係よりも、自己満足中心のものであるということが端的に表れているように感じました。

勉強や学問は、自己が学ぶことや真理の探求が本質的なものであり、そもそも人に喜んでもらえるものではないのだと、最近わかってきました。

 

 もちろん、テストで良い点を取ることで周囲から評価されたり、研究を教授や社会から評価されたり、勉強を生徒に教えたり、上手くいくとそういう喜びを得ることもできます。私は、つらくても、テストで点をとることが自分の将来を開いていくと信じ、また教育政策に関する学問を追究し、良い論文を書くことが何らかの形で国の役に立つと信じ、勉強を続けてきました。でも、残念ながら、私は、いくら点をとっても、自分が正しいと信じることを論文で主張しても、頑張ったわりには周囲に受け入れてもらうことができませんでした。結局、勉強することは将来自分だけでなく社会のためにもなるのだと信じていても、信じていただけで自己満足の域を出ることができなかったのです。

 

 進路を転換して勉強から離れ、民間企業の世界に入ったことで、なんというか、自然な形の「人に喜んでもらって嬉しい」という感情を知ることができました。テレビに出たことで、ADさんが喜んでくれましたし、応援メッセージをくれた方がいました。それがなんだか嬉しかったです。会社のインターンで初めてプログラミングをして、アプリ(結構しょぼかったけれど)を作ったら、社長が喜んでくれました。あれ、こんなに喜んでくれるんだと嬉しかったです。ブログを書いたら楽しく読んでくれているというコメントをいただきました。もとは記述問題や論文で培った文章力だけれど、それで喜んでくれる人がいる。それがなんだか嬉しかったです。

 これまでの自己満足中心で過ごしてきて、むしろ周囲からは疎まれがちの人間だったので、そういう小さなこと、喜んでくれる人がいることが自分にとってはすごく新鮮で、嬉しいことでした。

 

 ただ、人に喜んでもらうこと自体を自分の目標にするのは、少なくとも自分には向いていないのも確かですが。学校では、人のためを思ってしたことが裏目に出てしまうことが何度もありましたし、社会で人に貢献するような仕事(福祉など)にチャレンジしてもほとんど自分にできることはありませんでしたから。結局、私という人間は、根本が頭がよいだけであまり空気の読めない人間なので、残念ながら向いていないこともあるのでしょう…。

 自分にできることは、ひたすら自分を磨いて向上する、人生に勝つことを追究する、そしてその途上で人に喜んでもらうということに尽きるのだと思い、ここはもう諦めて精進していこうと思います。

 

 最後に、前回の高島屋さんのプロモーション企画を経て感じたことをまとめたいと思います。

 結論から言うと、プロモーション自体は、本質が宣伝であるため、あまり喜んでもらえるものではなく、やっていてあまり楽しいと思うことができませんでした。むしろ、人から拒まれる恐怖との戦いとなってしまいました。

 しかし、実際にブログなどを通じて多くの方にリアクションしていただいたことで、自分にはこんなに応えてくれる人がいるのだと感じ、それがすごく嬉しかったです。

 また、他の新卒同期のメンバーに声をかけをして、高島屋さんの入口でお客様に登録してもらうイベントを行ったのですが、その企画を喜んでくれた人が多くいたことが嬉しかったです。

 

 おそらく、宣伝だけでは、勉強と同じようにただやったことに満足する、自己満足中心のものと変わらないのだ思います。

個人的には、それよりも、人が喜んでくれるようなもの(プログラムなども含めて)を何か作るということ、また集まってくれる人が喜んでくれるような企画を行うこと、そういうことを、これから社会に出てやりたいなと感じました。

 

 これまでどうり、自己満でひたすら自分を磨きつつも、これからは、人に喜んでもらうという小さな幸せを大切に、人生を歩んでいきたいなと思います。

 

 

 

東大生の勝ち方から個人としての勝ち方を目指して…

 この投稿では、一般的なエリートと独立して成功している人の勝ち方の違いについて、考察したことを書いてみたいと思います。

 

 また、今回は宣伝も兼ねているので、読んでみてよかったと思ってくださった方は、文末のURLをクリックしてリアクションをいただけると幸いです。

 

 もう既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、私はTBSの「好きか嫌いか言う時間」というテレビ番組に出させていただいておりました。それを通じて、日頃関わっている東大エリートの方々とは、全く異なるタイプの方々とコミュニケーションをとる機会に恵まれ、さまざまな気づきを得ることができました。

 

 その中でとくに印象に残ったものが、一般的なエリートとテレビに出るような方々との勝ち方の違いでした。

 それは、ひとことで表すと、”同じ”で勝つか、”違い”で勝つかということでした。エリートとは、どういう人間でしょうか?なんとなくすごい人、という風に感じると思いますが、社会的な構造から洞察してみると、ある社会における統一された価値基準に沿って勝ってきた人々と捉えることができます。例えば、東大生とは、学校という社会システムの中で、勉強という統一された基準において勝ちをおさめてきた人間です。つまり、同じような人の中で同じようなやり方で勝つということがエリートの前提なのです。官僚や教師が画一的な考え方を取りがちと言われる所以はここにあります。通ってきたルートも、勝負のルールも同じなのですから、似たような考え方に偏ってしまいがちなのは当然です。ちなみに、スポーツエリートや芸術エリートも同じような原理だと思います。

 

 一方で、テレビ業界で勝つためには、同じルートである必要も、同じやり方である必要も全くなく、むしろ人との違いが威力を発揮します。もちろん、ジャニーズや吉本など(あまり詳しくは知りませんが)、学校に通うのと同じように、ある程度統一された訓練を受けて突出してくる芸能人もいます。しかし、それと同じくらい、全く関係のないルートから勝ち上がってくる人もいます。例えば、学校にも行かずに、芸能事務所に所属して、個人的にプロデュースしてもらって仕事を取ってくる人がいます。それまで全く関係のない仕事を転々としてきた中、偶然テレビに出てブレイクした人もいます。本業の傍らで、顔を売るために積極的にテレビに出ている人もいます。いずれにせよ、どの人も一般的なエリートのように、人と同じような正統とされるルートで勝つのではなく、個人として人との差異を活かして勝ってきているということが言えるでしょう。そのため、こうしなければならない、ああしなければならないと周囲の顔色を伺うこともなく、皆さん自由で大胆に生きています。ちなみに、私の就職するベンチャーの社長をはじめとする、起業家の方々も、こちらの原理だといえるでしょう。

 

 私は、どちらの勝ち方がよいというつもりはありません。ただ、人生に勝つためには、両方の要素が必要なのではないかと最近感じるのです。決められたルートに沿って他者と競争する中で成長できること、気づけることもたくさんあります。しかし、それだけでは行き詰まってしまうこともあります。人と比較しないで自由に個性を伸ばすことで生きられる人生があります。しかし、それだけではたどり着けない境地もあります。結局、両方をバランス良く兼ね備えながら、自分の納得出来る人生を歩んでいく、そういうことが大切なのではないかと思うようになりました。

 

 ところで、今まで自分がやってきたのは、当然ながら前者の勝ち方です。しかし、自分は、これまでの人と同じ基準の中で勝つやり方から、個性を伸ばして人との差異で勝つやり方にシフトしていきたいと考えています。東大生は、所詮学歴に依存しているだけ…。そんな風に言われてしまう状況から、学力を武器に変え、1人の人間として自立していく、そういう人間になっていきたいのです。勉強が評価されなければ何もできない、そういう弱い人間で終わりたくはありません。そして、そのためにはどんどん挑戦して変わっていかなければなりません。

 

 現在、私はITベンチャーに就職が決まり、これから自立して仕事をしていける人間になるために、高島屋さんのバレンタイン企画プロモーションのお仕事に取り組ませていただいています。1/26-2/14まで、新宿高島屋さんでは、Lineおともだち企画を行っており、高島屋さんのLineを友達に追加していただくと、無料でメッセージクッキーを受け取ることができます。このLineのお友達登録を増やすことが私のミッションとなっています。

 もとが公務員志望ですし、わからないことばかりなのですが、学歴という枠に依存せず、個人として自立した人間となるために、一歩一歩挑戦していかねばならないと思っています。そして勉強ゴリ押しではなく、ひとりひとり縁を築いて進んで行く、そういうことができるようになったらいいなと思って取り組んでいます。

 

 それなので、もし、この文章を読んでいいなと思ってくださった方がいたら、下記のURLにアクセスまたは、QRコードを読み取っていただき、新宿高島屋さんをLineのお友達に追加していただけたら嬉しいです。(たとえ文章が気に入らなくても、甘いものが好きな方は登録をしましょう笑!)

 また、お時間の許す範囲で、ご自身のSNSやLineグループで当URLをシェアして、お友達登録を増やしていただけると幸いです。

 

 http://ad.eqsv.jp/c/?guid=ON&n=DQWO&mid=g0l9

(※アプリからで開けない場合は、1度ネット上で開いてからクリックをお願いいたします)

 

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  文章が長くなってしまい、後半は宣伝となってしまいましたが、ここまで読んでくださった方は本当にありがとうございました!!

 今後とも一味違った個性のひかる文章を投稿してまいりたいと思いますので、よろしくお願いいたします!!

 

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学校と社会ー理想と現実の狭間で…

あけましておめでとうございます!

1月とか全く関係なく、もやもやと考えていることを書きたいと思います。

全然おめでたくない内容です笑

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学校教育では、将来何になりたいかとか、小学校の頃からよく考えさせられます。

 

私は、小学校の頃は本を読むのが好きだったから、作家になりたいと答えていました。

しかし、高校生になると、社会問題とかに関心が出てきて、漠然と途上国支援に関わりたいなとか考えるようになりました。そして、授業の一環か何かで、本を買って、国連職員について調べてみたら、これはコミュニケーション能力の高い活発なタイプの人がなるものだろうと思えて、無理だと諦めました。その後、自分に向いてそうな国家公務員を考えるようになりました。国家公務員について調べていくと、わりと自分と近いタイプの人がなっているような気がして、どんどんその気になっていきました。また、高2の冬頃に学校で辛いことがあって、学校教育に疑問を覚えたことから、教育制度に興味を持ち始め、文部科学省を目指すようになりました。そして行き詰って八方塞がりになり、思い切って民間就活に切り替え、そしてベンチャーに内定をもらい、今に至っています。

 

結局言えるのは、現実の社会って、自分の考えていたのとは結構違ったということなんだと思います。そして、人間はわりとなんとなく社会の流れに従って生きてるだけなんだということです。そして、運悪く、自分の思い描いていたことと現実社会とのズレに足をすくわれて痛い目をみる人がいるということなのです。それは学校教育で教えることが理論的というか、綺麗事というかなんというか、現実社会とわりとギャップがあるから必然なんだと思います。

 

理屈で説明するのとは違って、現実社会はただ「似たような価値観の人が集まってその仕事をしてる」というふうにできているのだと感じます。社会は人が集まって、人と人とのつながりでできていのです。例えば、子供にものを教えるのが好きな人や学校によい思い出がある人が教師になります。(そして教師の価値観が学校の価値観になって、それと合わない子供がなんとなく学校に行きたくなくなって不登校になります。)細かい解釈とかにとことんこだわるのが好きな人が研究者になります。なんとなく勉強ができて、社会に関心があって、何でも器用にこなすような人が官僚になります。(そしていい感じにエリートとして社会に君臨します。)型にはまるのが嫌いな人や、しがらみなく自由に楽しくやりたい人が、自分で起業したりベンチャーに行ったりします。だから、頭でこの仕事がやりたいと思ったところで、実際にその仕事につけるとは限らないのです。どうしてもその職業集団との相性ということがあるからです。

 

つまるところ世の中はそういうものなのに、私は文部科学省に入って、本気で教育行政に人生を捧げようとか思っていました。もし国家試験に受かったとしても、情熱云々に関わらず、官庁訪問で囲い込みされてた人たちが採用されるだけなのに…。そう考えると、あんなに情熱を燃やしていた教育行政だけれど、あそこで潔く諦めて本当によかったと思えます。

 

学校で教えられる社会と、実際の現実は違います。そのなかで、私は運良く理想を追いかけて負のスパイラルに陥るルートから抜け出せました。それは武道を通じて培った、禅の断捨離精神があったからです。何事も積み重ねが大事だと、よく言われます。そして、常識的に考えればそれが正しく思えます。しかし、私はこれまでの執着や思い込みを斬り捨てることで前に進むことができました。理不尽な世の中コノヤロウ、と既存の価値基準を蹴りつけることで新しい道が開けてきました。夢や志を諦めるのはよくないことで、諦めずに続ければ最後には成功できる、そんな語り口が結構あるけれど、本当にそれで上手くいくのは一部の運が巡ってきたラッキーな人たちだけです。現実には、諦めずにぐじぐじ固執してなんの成果も得られない状況は、なんとも惨めなだけです。(それをやっていて何か強烈なやりがいがあればまた違ってくるのでしょうけれど。)現実の厳しい人生を生き抜いて、自分の納得いく人生を勝ち取るには、理想論だけじゃなくて、潔く斬り捨てて前に進むってことも必要なんだとわかりました。

 

ただ、やっぱり夢とか志をもつことを全て否定してしまうのは悲しいことに思えます。そういうものを追求したこともないくせに、現実を見ろとかいう大人はすごく嫌だなと思ってしまいます。やるとこまでやりきったからこそ、自信をもって方向転換できたし、人生に後悔はないって言い切れます。まあでも、自分はこれから先ずっと、夢や志があったからここまで頑張って成功できたのだと、何の疑いもなく言う人たちについては、なんて恵まれたラッキーな人たちなんだと、羨ましく感じてしまうのでしょうけれど…。